ジゴワットレポート

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映画とか、特撮とか、その時思ったこととか。

『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』は、言うなれば「ディスニーの逆襲」である

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公開日は平日だったのに朝イチの回がかなり埋まっていたあたり、やはり『スター・ウォーズ』の文化的認知度の高さを思い知る。

まあ、かくいう私もこの日仕事を休むために約半年前から密かに調整していた。公開日に合わせて有給届を出した際に上司の含み笑いを目にしたような気もするが、フォースの素養が無い私は何も気づかなかった、と、いうことにしておきたい。

 

starwars.disney.co.jp

 

かくして2年ぶりの新作、スター・ウォーズ 最後のジェダイ』。

今年は何かと「最後の」が付くタイトルが多い気がするが、これは邦題でもなんでもなく、正真正銘The Last Jedi』。何をもって「最後」なのか、それは一体誰を指すのか。実際に鑑賞してみると、非常に意味深なタイトルだったと身体に沁みてくる。

 

前作『フォースの覚醒』は、ディズニーが旗頭となって製作された10年ぶりの新作であり、そのクオリティについて全世界のファンが病的なまでに神経質になりながら注目していた感覚がある。

蓋を開けてみると、大まかなストーリーラインはシリーズ1作目『新たなる希望』を踏襲しながらも、シリーズファンへの目配せと、新しいキャラクターの魅力を、これ以上ないバランスで両立させた作品だったと言えるだろう。

しかも、単純明快にエンターテインメント作品として「面白い!」点がずば抜けており、老若男女がハラハラドキドキしながら楽しめるSF超大作として、私自身も映画館に通って何度も楽しんだお気に入りの一作だ。

 

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続いて、「旧三部作」「新三部作」に続く「続三部作」(と、ファンの間ではよく表現されている)の2作目、つまり、『帝国の逆襲』『クローンの攻撃』に相当する位置づけとして公開されたのが、本作『最後のジェダイ』である。

『フォースの覚醒』のほぼ直後から始まる物語で、レイは伝説のジェダイ・ルークに師事しながら己の運命と向き合い、対する暗黒面のカイロ・レンもまた光の誘惑と戦い、一方でレジスタンスは過酷な撤退戦を強いられる物語となっている。

 

率直な感想として、万人が好むであろうエンターテインメントとしての性格は、『フォースの覚醒』よりいくらか劣ると感じた。というより、これはむしろ、そのベクトルだと『フォースの覚醒』が「できすぎ」だったなと、今更ながらに痛感した面もある。

 

では、『最後のジェダイ』が持ってきたアプローチとは、果たして何だったのか。

私はこの部分に、いわゆる「続三部作」が提示した新しい価値観、『スター・ウォーズ』的に言うのであれば、まさに「ディズニーの逆襲」と言えてしまえるような、そんな大きな流れを感じてしまった。

 

 

※以下、映画本編のネタバレがあります。

 

 

結論から挙げてしまうと、本作の肝はついに明かされた主人公・レイの出自にある。

前作『フォースの覚醒』では「砂漠の惑星でずっと誰かを待っている」「置き去りにされて去っていく船を見上げた過去がある」という断片的な情報のみが描かれ、その真相そのものは全く提示されなかった。

しかし、並々ならぬフォースの素養があるなど、その出自にはどこか「ただ者ではない」という雰囲気が漂っていた。私を含む多くのファンが、まずは安直に「ルークの娘では?」と予想を頭に浮かべては打ち消し、その後様々な想像を膨らませたことだろう。

 

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というのも、『スター・ウォーズ』と「血統」という要素は、これまで絶対に切っても切り離せなかった。

この壮大なサーガが「何の物語なのか」というのは度々議論される部分であるが、「アナキンの物語」であろうと、「ルークの物語」であろうと、そこには絶対的に「血統」もしくは「家族」というキーワードがあった。暗黒面に堕ちたダース・ベイダーは、最後の最後に息子を助け、その命を散らせる。そのゴールがあるからこそ、アナキンが闇に傾倒していく様にも一縷の光が残る。

「スカイウォーカー家」の、呪われた、しかし希望が垣間見えるその運命の螺旋が、『スター・ウォーズ』という世界観に縦筋を設けていた。

 

しかし、続く「続三部作」の主人公・レイは、その血統から外れることとなった。

スカイウォーカーでないばかりか、過去のどの登場人物とも関係ない、砂漠の星に住む名も無き登場人物の子供。しかも、あろうことか親に売られ、置き去りにされてしまった。

 

これはつまり、スター・ウォーズ』という壮大な銀河の歴史絵巻に通っていた一本の筋を放棄する設定とも言える。

本作『最後のジェダイ』をもって、『スター・ウォーズ』は、「スカイウォーカーの物語」でも、ましては「血統の物語」でもなくなったのだ。

では一体、「何の物語」なのか。

 

これはエンドロール直前の少年が端的にそのテーマを体現している。

つまりは、「誰の物語でもない」ことが「物語」である、もっと言うと、皆が主人公であり、皆がフォースと共にあり、皆に各々の運命が待ち受けているという、非常に普遍的なテーマに帰結するのではないか、と思うのだ。

壮大な銀河の叙事詩の中で、『スター・ウォーズ』とはこれまで「スカイウォーカー家の視点から捉えた物語」だったが、これを更にもう一歩俯瞰する視点を提示したのが、本作『最後のジェダイ』なのである。

 

レイがスカイウォーカー家と何も関係なかったように、そして、最後の少年がまるでライトセーバーを構えるように夜空を見上げるように、我々は全員が主人公であり、個々に「物語」を持っている。

スター・ウォーズ』というフィクション世界が「ひとつの血統の視点」を脱却したことで、相対的に、登場人物全員がその銀河の主人公であるという価値観が誕生したのだ。

 

そうして、「スカイウォーカー家の物語」に深く関わっていた人物は次々とその歴史を畳んでいく。ハン・ソロが死に、ルークは逝き、双方の属性を併せ持つ旧三部作の結集のような存在ことカイロ・レンは決定的に暗黒面に堕ちていく。

旧三部作の要素が次々と畳まれていく一方で、同時に展開されるのは、「スカイウォーカーの血統」でもなく、「新たな家系の物語」でもなく、「誰でもない誰か」の物語なのだ。そう考えると、昨年公開の『ローグ・ワン』も、まさに「誰でもない誰か」の物語だったと言えるだろう。

 

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この普遍的なテーマ、つまりは、全世界の誰もがその物語の視点に立つことを積極的に許すアプローチは、ディズニーが世界中から愛されながらはるか昔から用いてきた姿勢とも言える。

本作『最後のジェダイ』をもって、スター・ウォーズ』は晴れて「みんなのもの」になった。レイの物語でも、フィンの物語でも、ポーの物語でも、それを観ている私の物語でも、これを読んでいる貴方の物語でもある。そこに、限定されるべき「家系」も「血統」も、存在しない。

 

だからこそ、現実は過酷だ。

「主人公家系」のような絶対的な「軸」が無くなったからこそ、レジスタンスはそのルークを持ってしてもファースト・オーダーを撃退することはできない。戦略的撤退が関の山である。

スター・ウォーズ』が「血統」を脱し個々に帰属する物語になったのならば、その「個々」が集結して巨悪に立ち向かうしかなく、それはつまり文字通りの「レジスタンス」であるとも言える。愚直なまでにストレートな「みんなで」というメッセージは、これも全世界のエンターテインメントの頂点に鎮座するディズニーの十八番だろう。

 

しかしこの普遍的なテーマは、あえて意地悪に言うならば、ジョージ・ルーカスが作ってきた『スター・ウォーズ』に対するディズニーの「逆襲」でもある。

『最後のジェダイ』は、「ルーカスが作ってきた『スター・ウォーズ』」を懸命に崇めたまま葬るような作品であり、作中におけるルークの死はそのひとつの象徴とも言えるだろう。「どうぞご勇退ください」という案内板を、こともあろうかルーカスに向けて掲げたような印象すらある。「あなたの作ってきたサーガはこうやって終わっていきますからね」、と。

 

しかし、考えてみれば、アナキンだってその昔は「誰でも」なかったのだ。

長年その出自は噂されてきて、ミディ・クロリアンから生まれたのではなどとも言われてきたが、『最後のジェダイ』におけるレイを思うと、彼も実は思わせぶりだっただけで単なる辺境で父を亡くした少年だったのかもしれない、とも思えてくる。

もちろん真相は闇の中だろう。が、「誰でもなかった」少年がクワイ・ガンにその才覚を見出され、フォースを身に着け、銀河の光と闇のバランスを担う存在になる。そうして、「そこ」から、「スカイウォーカー家」の物語は始まったのだ。

言い換えれば、『スター・ウォーズ』の過去6作は、たまたま、スカイウォーカー家の物語に視点が合っていただけの話 ・・・なのかもしれない。「ここ」から、また新たな視点が幕を開ける、のかもしれないのだ。

それこそ、「遠い昔、遥か銀河の彼方で」の本懐だろう。

 

そう考えてしまうと、『最後のジェダイ』は、新しいアプローチを持ってきつつも過去6作とテーマを円環構造にして帳尻を合わせるというウルトラCに挑戦した野心作、だったとも、言えるのではないだろうか。

 

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まあ、「フィンとローズの作戦は最終的に完全失敗だったのにそこに当てた尺が長すぎるのでは」とか「レイアの後任のホルド提督は輸送船で脱出する作戦を皆にあらかじめ周知しておけば良かったのでは」とか、色々、「ええ!??」となるところは、正直少なくなかった。

やはり『フォースの覚醒』に比べて、その辺りの交通整理というか話運びのスマートさは、いくらか劣っていたと言わざるを得ない。

しかし、仲間を逃がすためにファースト・オーダーの圧倒的兵力に単身で立ち向かう伝説の老兵=ルーク・スカイウォーカーという、あまりにも強烈すぎる絵面を提供されてしまっては、頭が上がらないのも事実である。あの一連のカットの「圧」は、やはり尋常ではなかった。

 

結論として。

タイトルにも書いたような「ディズニーの逆襲」とも言える普遍的テーマへのアプローチは、やはり『スター・ウォーズ』という歴史の中では革新的であり、そこへの挑戦や野心という点で、私はこの『最後のジェダイ』を支持したいと思うのである。

 

 

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映画『ジャスティス・リーグ』、それは聖典がエンタメ誌になるということ

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マーベルとDCは例えるなら日本で言うジャンプとサンデーみたいなもので、『アベンジャーズ』がルフィとナルトとジョジョが共演する映画なら、『ジャスティス・リーグ』はコナンとマギと犬夜叉が共に戦う作品だよ、という、あまりにもざっくりでフワフワすぎる説明はもはや使い古されてきたそれである。

しかし、サンデーがジャンプに一歩劣るイメージがあるように、少なくとも今のアメコミ実写化ムーブメントにおいては、やはりDCよりマーベルがリードしていると言わざるを得ない。

 

元々アメコミ史的にはDCが絶対的開拓者とのことだが、この2010年代において前人未到の「実写映画ユニバース構造」に乗り出し、しかも結果を出しているマーベルは、やはり生ける伝説だと思い知らされる。

私も1作目の『アイアンマン』を当時劇場で観たが、そこから来年公開を控える『インフィニティー・ウォー』まで、また随分遠くまできたものだ・・・。

 

wwws.warnerbros.co.jp

 

かくして、そんなマーベル(MCU)に追いつけ・追い越せのDC(DCEU)の最新作、ジャスティス・リーグ』。

 

各種SNSでも、み~んな、スーパーマンが復活することは当然のように分かっているのに一応気を遣って言及しないという紳士的配慮が炸裂した本作は、お馴染みのバットマンに、単独映画がついこの前公開されたワンダーウーマン、ドラマ版が先行したが別ユニバースで登場するフラッシュなど、豪華絢爛なメンバーが銀幕狭しと暴れまくる。

 

率直な感想として、面白かった。

キャラクターは生き生きとしているし、それぞれが抱えるドラマにも見応えがあったし、クスっとできるジョークも多く、何より「チームになることで心に迷いを持つ超人同士が居場所を獲得する」という落し所は、その名の通り人を超えた存在である彼らをグッと身近に感じられるアプローチだったと言えるだろう。

 

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しかし、「面白かった」はありつつも、やはり「これでいいのか?」という感覚がどうしても拭えないのも確かだった。

 

ザック・スナイダー監督の降板は御身内の件があるからして詳しくは触れないが、その後の監督を務めたのはまさかのジョス・ウェドン。『アベンジャーズ』の監督がここにやってくるなんて、報道で知ってとても驚いたのを覚えている。

そして、追加撮影に破格の2,500万ドル、期間は2ヶ月、おまけに「もっと明るい作風に」という要請がスタジオからあったというではないか。

 

そういった背景を踏まえて観ると、やはりこれは映画単体の話ではなく、DC社のマネジメントというか、このコンテンツをどう持って行きたいかに疑問を抱かざるを得ない。

ジャスティスの誕生』もスタジオ的には納得度が低い結果になったとのことだが、逆に、マーベルとは違うアプローチが光る作品だとは感じていた。

親しみやすいキャラクターから世界観を掘り下げていくマーベルに対し、圧倒的な超人が構築した世界観に観客を引きずり込むDC。後者が持つ一種の劇薬的な、むしろ「聖典」とでも言ってしまえる良い意味での「近寄りがたさ」「影の多い神々しさ」は、DCEU最大の売りでは無かったのか。

 

過去にも書いたことがあったと思うが、アメコミ映画のユニバース構想としてすでに確固たる地位を築いているマーベルのMCUに対し、DCEUはまた違った切り口で挑戦しているな、という印象がある。

 

MCUは、まずはキャラクターの魅力を押し出しつつ、そのヒーローが現実社会に本当にいたらどうなるのか、というアプローチ。

DUEUは、世界観や設定・ヒーロー登場により影響を受けた社会そのものを先に提示し、その中で進行するヒーローのドラマはどのようなものか、という感じだろうか。

 

MCUが近年のVFX大盛映画の文脈を受け継いで実写に溶け込むVFXを描くのに対し、DCEUはどちらかというと嘘を嘘のまま提示する(VFXが必然として『浮く』ことを外連味としてあえて活かす)印象があり、これはどちらが良いとか悪いとかいう話ではなく、作風・絵作りの違いとしてとても面白いなあ、と。

だから、『ジャスティスの誕生』なんかは、いくつも「まさにアメコミのワンカットじゃないか」というシーンがあったり、そのライティングや止め画的なアプローチなど、またMCUとは違った魅力があると感じている。

 

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「明るく作ろう」という要請をしながらジョス・ウェドン監督を連れてきたならば、万人が「おそらくこうなるだろう」と予測できる作風があって、そして、完成物はものの見事にそうなっているのである。そりゃあもう、自明の理ですよ。

 

確かにそれは「面白い」。ライムスター宇多丸氏が言うところの「交通整理の巧さ」「ウィットに富んだジョーク」はジョス・ウェドン監督がMCUで大いにそのスキルを証明してきたものであり、それをあろうことか同じジャンルであるアメコミヒーロー映画でやるのならば、どう考えても「これ」になるのだ。

だから、「面白い」。でも、やっぱり「知ってる味」なのだ。これで本当に良かったのだろうか。

 

そもそも、『ジャスティスの誕生』が満足いく結果にならなかったのは、「作風が暗かったから」がその原因だろうか。

「チームものとしてアウトローたちが家族みたいになる!」という『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を模倣したかのような『スーサイド・スクワッド』は、果たしてどれほど面白かったのか。

果てには、バットマンベン・アフレックを交代するという報道も出始め、もはや「迷走」という二文字が顔を出し始めてはいないだろうか。

 

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ジャスティス・リーグ』、面白くて、各キャラクターの単独映画も観たいという気になったが、安易なMCUの後追いに感じられてしまった部分が、やはり私にはどうしても残念である。

聖典」が気付いたら親しみやすい「エンタメ誌」に変わっていたかのような喪失感は、果たしてこの先どのDCEU作品が払拭してくれるのだろうか。

 

私の言う「聖典」の側面は、ザック・スナイダー監督の作風に頼り切ったものだったのだろうか。MCUはむしろ「エンタメ誌」を崇めたくなるレベルまで無限昇華していくターンに突入しているが、DCEUは本当にこのまま同じアプローチで攻めていくのだろうか。

とにかく、「迷走」が脳裏を過ぎりつつも、「期待」の二文字は未だ消えない状態である。

 

 

◆過去記事

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転職を重ねて痛感した「仕事ができない人の特徴」

「仕事ができない人」と一口に言っても、それは労働環境に問題があったり、人間関係だったり、得手不得手だったり、純粋な能力の問題だったり、色々ある訳ですが。

私は運良く複数回転職を経験できたのですが、それを重ねるごとに痛感した「仕事ができない人の特徴」を、書き並べてみたいと思う。

 

 

・「今やらなくてもいい仕事」を額面通り後回しにする

 

例えば「メールを返す」とか「上司から頼まれた書類の整理」とか「特に急を要しない書類への押印」とか、そういうもの。別に今やらなくてもいいよね、という、ボリューム的には軽い仕事の数々。

「仕事ができない人」は、この「今やらなくてもいい」を額面通りに受け取って、マジで今やらないまま寝かせてしまう。そして、もちろん「今やらなくていい」ので、しばらくは何も起こらない。しかし、それが後から後からジワリと効いてくる。

タイミングとは不思議なもので、忙しい時に限って、先方から「例のメールの件どうなりました?」と電話が来たり、上司から「この前整理お願いした書類の中の〇〇を見せて」と言われたり、他部署から「あの書類が回ってきてないけどどこで止まってるの?」と内線が飛んできたりする。

「今」やっておけば1分で終わっていた仕事に、後から盛大に振り回される。そして、自分の前後の時系列で仕事する人たちに、漏れなく迷惑をかけてしまう。

本当に忙しい時は、もちろん「今やらなくていい仕事」は放っておいて良いと思うが、適度に余裕があるタイミングで、こういった「軽い仕事」を貯めることがないように意識した方が良い。

 

 

・「仕事」と「作業」を分けるのが下手

 

仕事には大きく、そのまま「仕事」と言えるものと、「作業」に分類できるものがある。

例えば、「取引先と打ち合わせ」「見積書の作成」みたいなのは、言うまでもなく「仕事」。対して、「書類の片付け」「名刺の整理」「入力業務」みたいなものは「作業」と言える。これを大雑把でも良いので分けて考えておかないと、「仕事」をすべきタイミングで「作業」をしていたり、「作業」が適しているタイミングで「仕事」をしたりしてしまう。これでは、どちらの業務も捗らない。

「仕事」の方は往々にして、上司にアドバイスをもらったり、取引先に確認をしたりする必要があるので、これは通常の時間帯に取り掛かるのが良い。「作業」は、ぶっちゃけ自分ひとりでもこなしてしまえるものなので、これは、残業時間や閑散期にやるのが良い。その方が互いに捗る。

適材適所は人のことだけでなく、その業務の性格やタイミングにも言える、ということだ。

 

 

・「取りあえず」をしない

 

数多のビジネス書にも書いてることだが、「仕事ができない人」は「取りあえず取り掛かる」をしない。慎重を気取って、ゆっくり準備して、一発で完成形を目指そうとする。

「自分にとっての完成は上司にとっての未完成」であって、見積書の作成も、企画の立案も、何もかも、まずは「取りあえず」やってみて、その時点で上の反応をもらった方が良い。自分の中でいつまでも試行錯誤しても、それが良い結果に繋がることはほとんどない。

また、「取りあえず」やってみないと分からない準備というものもあり、例えばいざ企画書を作り出したタイミングで「あー!これは昨年のあの数字も必要だ!どこにあるんだ!?」みたいなことになる。しかも、その必要な数字はよりにもよって他の担当者や他部署が持っていたりするので、そこから拾うのに時間がかかってしまう。

仕事において完璧な準備というものは非常にハードルが高いので、「取りあえず」やってみて、いくつもの準備と実行を同時進行するべきである。

 

 

・デスクが汚い

 

これは賛否両論あると思うし、私も一概に「汚い人は仕事ができない」とは思わない。が、「汚い」は正確にいくと「整理されていない」で、もっと正確にいくと、「(その本人にとって)整理されていない」場合を指している。

例えば、他人から見たら散らかっているデスクでも、その人にとっては「整理されている状態」だったりすることは、よくある。その人に「〇〇の書類ありますか?」と聞くと、書類の山の中から一発で引き当てて「これ!」と渡してくれたりする。武藤遊戯も驚きのディスティニードローだ。

対して、「えーっと、アレはそこにやったっけ・・・」と毎日のように家探しを始める人がいる。これはもう言うまでもなく、「デスクが汚い=整理されていない=仕事が整理されていない」の方程式であり、時間や機会のロスが果てしない。

こういう人は、前述の『「仕事」と「作業」を分けるのが下手』にもよく該当していて、要は、仕事を「分ける=整理する」という行為が、単純に下手なのである。

 

 

・ミスを誰にも話さない

 

これも沢山の人が何らかの本ですでに読んだと思うが、ミスを自分だけで処理して、それで終わりにしてしまうパターン。上司はおろか、横の関係の同僚にも伝えない。

これが何を意味するかというと、そのミスに対するカバー(火消し)の方法がもしかしたら間違ってるかもしれない、という可能性を潰してしまうのである。もしかしたら、1時間かけて対処したミスも、実は観点を変えればものの5分で終わることがあったり、もしくは、5時間でも何日間でもかけて処理するのが求められる場合もある。本人は「終わった」と思ったミス対応でも、相手には遺恨が残っていたりする。

ミスは、確かにその人のミスかもしれないが、チーム全体・部署全体のミスでもあるので、そのメンバーでなるべく事例を共有して当たった方が良い。

確かに、ミスは恥ずかしい。自分が責められる可能性も高い。怖いしビビる。しかし、ここで勇気を出して正直に情報共有しておかないと、後々もっと重い足枷をはめることになってしまう。ましてや、自分だけでコソコソしてミスの発生すら隠して片付けようとしてしまうのは、言語道断である。

 

 

・・・などとまあ、他にも色々ある訳ですが、これらが、私が職場を移ったりしながら実感した「仕事ができない人の特徴」です。

 

 

 

 

というか・・・

 

 

 

 

ぶっちゃけ・・・

 

 

 

 

全部、以前の私のことなんですけどね。

 

 

 

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(出典:『ジョジョの奇妙な冒険荒木飛呂彦 株式会社集英社

 

 

特に新入社員で入った会社については、てんでダメで、上に書いたことについて親身な上司に何度も呼び出されて、優しく・時に厳しく指導されました。「そんなやり方してたらお前自身だけじゃなく同僚の信用も失ってしまうよ」、と。

 

その上司が口癖のように言っていたのは、「仕事には鮮度がある」という表現。

仕事は、自分で持ちすぎると腐る。生魚とか生肉をじーっと握るようなものだ、と。だから、適切なタイミングで(「適切な」が大事。常に速く、ではない)手早く処理をして、次の工程に取り掛かる、もしくは次の人に預けなければならない。生肉をじーっと握りながら「あーでもない・こーでもない」とやる暇があったら、トレーごと持って俺(上司)の意見を聞きに来い、と。

 

その上司はとても尊敬できる方で、今でも連絡を取り合うのですが、とにかく部署の雰囲気を作るのが上手い方で。

その方のおかげでいつも適度にワイワイしているので、ミスの情報交換も、仕事の進度の相互確認も、気兼ねなく出来る環境、という感じで。

将来自分がもしそういう立場になるのだったら、見習いたい方ですね。

 

で、自分は幸いにも何度か転職を経験できたので、自分の仕事のやり方をイチから見直す機会があったんですね。これが本当にありがたかった。

前の職場で尊敬できた上司・先輩・同僚の仕事のやり方をパクりにパクって、新しい職場でさも前々からそのやり方を実践していたかのような振る舞いをする。自分でもどうかと思うけども、そうすることで、自然とそれが「自分のやり方」に馴染んでいく。馴染む、実に馴染むぞ。

 

まあ、かといって、今の自分が人より「仕事ができる」とは到底思っていませんが、少なくとも上司に指導されていたあの頃よりは「できる」自信がありますね。

上に挙げた「できない人の特徴」についても、スケジューリング、タスク管理、様々な面で自分の中で方法論が固まってきて、数年前より格段に効率よく回せるようになりました。とにかく、腐らせないようにしてます。

それを経験するまでは、「転職」を「仕事のやり方をリセットできる機会」と捉えたことは無かったので、これは実際に経験してみて良かったな、と思ってますね。

 

今も現在進行形で、同じ職場の「仕事ができる人」の方法論を何とかパクろうと、虎視眈々です。

 

 

職場の問題地図 ~「で、どこから変える?」残業だらけ・休めない働き方

職場の問題地図 ~「で、どこから変える?」残業だらけ・休めない働き方

職場の問題地図 ~「で、どこから変える?」残業だらけ・休めない働き方

 

 

この本、この記事に書いたような「できない」を、主に組織の環境・システムの視点で紐解いている一冊なので、とてもオススメです。とにかく読みやすい。

 

 

◆過去記事

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感想『仮面ライダー 平成ジェネレーションズFINAL』暴走気味の愛とリスペクトを設定に込めて殴る、平成最後の衝撃作!

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公開日朝イチで観に行った仮面ライダー平成ジェネレーションズFINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー』。(改めて字面で見るとやっぱ相当長いなコレ・・・)

 

www.toei.co.jp

 

冬の『MOVIE大戦』が恒例化して久しいが、この「冬映画」枠もかなりの変遷があったなあ、と今更になって感慨深くなる。

初代MOVIE大戦こと『2010』でふたつの東映△マークが現れた時はやはり度肝を抜かれたし、『MEGAMAX』で5部構成になったり、『ジェネシス』で新旧ライダーの物語が完全一本化されたりと、春の枠とはまた違ったアプローチでの「攻めの姿勢」が見られた。

 

昨年からは『平成ジェネレーションズ』と題し、レジェンドライダーの出演を大々的に打ち出す作りに改革。そして、リニューアル2作目でいきなり『FINAL』と銘打たれた本作は、非常に特殊な性格を持つ作品だったな、というのが率直な感想である。

 

 

先ずもって何より、本作の監督を務めているのが上堀内佳寿也氏であるところから言及していきたい。兎にも角にも、大森プロデューサーによるこの抜擢が本作の特徴を決定付けたのだと思えてならないからだ。

 

本作のメガホンを取った上堀内佳寿也監督は、今回の映画で復活を果たすレジェンドライダー『オーズ』『フォーゼ』『鎧武』『ゴースト』では助監督として参加し、キャストたちと濃密な時間を過ごしてきた。それだけに本作を演出したときの感想を求められると、「懐かしかったですね。助監督として1年間近く過ごした歴代作品のキャストと、今度は監督として再会できた。ただ懐かしいだけでなく、みんなそれぞれ成長して帰ってきたことに驚かされ、お互い感慨深いものがありました」と熱っぽく語っていた。 

 

news.mynavi.jp

 

オジンオズボーン篠宮暁(以下、篠宮):早速ですが、どういう経緯で本作の監督に決まったんですか?

 

上堀内佳寿也監督(以下、上堀内):確か、「エグゼイド」の39話、40話の編集作業をした帰り道に、大森敬仁プロデューサーと映画の話をしていたんです。そしたら、「じゃあ、そういうことで。お願いします」と、さらっと。撮影所に僕の「えぇー!!」って声が響いてました(笑)。

 

篠宮:だいぶ早い出世ですよね?

 

上堀内:ほかの監督さんや周りの方々と話して「驚きました」っていうと、みんなから「こっちが驚いたよ!」って言われます。

 

篠宮:どういうところが評価されて、本作に抜擢されたと思いますか?

 

上堀内:若さ、でしょうか(笑)。ほかの監督と違うところって、若さからくる勢いくらいなんじゃないかな、と思います。

 

cinema.ne.jp

 

引用したように、上堀内監督は本作に登場するレジェンドライダーたちの現場でずっと助監督として働かれていた方で、『エグゼイド』にて遂にTV本編監督デビュー、続く『ビルド』でも(本稿執筆現在で)計2話を担当されている。

様々なキャストのインタビューでも「上堀さん」の愛称で親しまれる監督だが、その実績通り、各ライダー作品への「愛」が凄まじく、本作ではそれが半ば暴走気味に画面に盛り込まれるという、これまでのライダー映画とはちょっと一線を画する仕上がりとなっている。

 

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というのも、これまでの平成ライダーの集合映画(クロスオーバー映画)というものは往々にして「緩く繋がる」というニュアンスがあり、それぞれ独立した世界観で描かれるドラマが融合することに深く言及した作品は少なかった。

 

それでもオタクという生物は無駄に厄介なもので、例えば「ダブルの夏映画に出演したオーズはその後のダブルが最終回で1年後をやったので時間軸がズレているのではないか」とか「鎧武の世界がヘルヘイムの浸食により壊滅の危機に瀕したのに過去のライダーたちはどうして助けてくれなかったのか」とか・・・。

そういった、公式が「映画は特別なので緩く繋がって共演します!」という温度でやる共演について、様々な理屈をこねまくって勝手に納得する、そんな自主活動が例年行われていた。(少なくとも私の脳内では)

 

とはいえ、「映画は特別なので緩く繋がって共演します!」は東映の御家芸であり伝統芸とも言える方法論なので(戦隊しかり過去のヒーローしかり)、「それはそれ」として納得している自分がいたことも事実である。

 

そんな必要以上に面倒臭い地平に、本作『平成ジェネレーションズFINAL』は、真正面から設定という名の拳で殴りにかかる作りになっていた。パラレルワールドという設定そのものが今回の敵の攻撃だー!くらえー!」という感じで、理屈にこだわるオタクな視聴者たちをタコ殴りにする仕上がりであった。

なぜこんなことをわざわざ書くかというと、前述の通り、ここまで「共演すること」を「お祭りなので!」で片付けなかった平成ライダー作品は、これまでそうそう無かったからである。

 

平行世界のビジュアルを「ふたつの地球」でしっかりと提示し、それを衝突させることが敵の目的で、それを阻止することがライダーたちの使命。だから、世界観の異なるライダーたちが一時的に共闘することが可能になるのだ! ・・・なんて、よくもまあここまでしっかりと土台を設けたな、と。

 

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これについては、本作のプロデューサーが大森敬仁氏であるところも大きいと感じている。というのも、コンテンツとして太く厚く成長した平成二期で『エグゼイド』『ビルド』と2年連続してプロデューサーを務めたのは大森氏が初であり、だからこそ、2作品の設定を緻密に踏まえた土台作り&クロスオーバーが可能だったものと思われる。

特に『ビルド』の世界はスカイウォールという日本を三分割する未知の壁が存在する世界観であり、その殺伐とした設定と謎が本編の核であるからして、例え共演映画だとしても絶対にそこを崩したくなかったのかな、というのは推測が過ぎるだろうか。

 

かくして、『ビルド』はその世界観設定を守ったまま、『エグゼイド』以前はそれまでの共演映画で出来た「繋がり」を尊重したまま、文字通りの「壁」を壊すことなく両作品を見事に融合させることに成功している。

『エグゼイド』夏映画『トゥルー・エンディング』で登場したビルドや、TV本編最終回で登場したビルドガシャットなど、本来なら「おまけ」で片付けても許されるだろう要素をしっかりと本編設定に組み込んだのも、驚異的である。

 

話がかなり横道に逸れてしまったが、だからこその上堀内監督なのだ。

前述のとおり、『オーズ』から最新作『ビルド』に至る全てのレジェンドライダーの製作に現場の第一線で関わってきた人だからこそ、過去の作品群を最大限尊重したクロスオーバーをまとめあげることが出来る。

詳しく後述するが、火野映司役・渡部秀氏の特別ラジオ番組でも、上堀内監督は「各々の作品へのリスペクトを込めた演出をした」という趣旨のことを述べており、生身で跳びあがってアクションをする葛葉紘汰や、水面で浮遊するゴーストなど、シリーズを観てきた人間こそ「おおっ!」と叫びたくなるカットに満ちていた。

 

また、同監督は非常にアイデアとギミックに満ちた映像を作る方、という印象が強く(『エグゼイド』でいくとクロノスの背にあった巨大時計やパラドが水に沈むイメージ映像は監督の発案とのこと)、今回もVFXを湯水のように用いたクライマックスのバイクアクションと大乱戦には、その映像に新鮮味を覚えるほどであった。

画面の奥まで使った大胆なバイクアクションの連続は、もはや『バトライド・ウォー』シリーズの映像化と言っても差し支えないだろう。

 

 

スタッフ面で加えるならば、本作は『エグゼイド』のメインライター・高橋悠也氏と『ビルド』のメインライター・武藤将吾氏の完全共作となっており、片方が作ったシナリオを片方が直し、またそれを片方が直し、というキャッチボールが繰り広げられたとのこと。

 

これについては『ハイパーホビー VOL.6』の両脚本家対談をぜひ参照して欲しいのだが、注目すべきは高橋氏の過去作への研究度合いである。「(各レジェンドライダーの)その後の展開も含めて時系列で最後となっているポイントの人間関係や信念を抽出し、基本はそれを踏襲しながら、そこに少しだけ今らしい新しさを付け加えた」という趣旨の執筆意図が語られているのだ。

これもまた、どの作品とはわざわざ言わないが 「お祭りなので!」という大義名分で原典へのリスペクトが感じられないレジェンド出演に苦い思いをしてきたファンにとって、失礼ながら「愚直すぎる!」と言ってしまいたくなるほどに驚くべきスタンスであった。

 

ハイパーホビー VOL.6 (ハイパームック)

ハイパーホビー VOL.6 (ハイパームック)

 

 

  ――さて、いよいよ12月9日よりビルドとエグゼイド、そしてレジェンドライダーたちが豪華共演を果たす映画『平成ジェネレーションズFINAL』が公開されますので、こちらのお話をうかがいたいと思います。脚本にはお2人のお名前が連名で記載されているのですが、かつての「MOVIE大戦」シリーズのように『ビルド』パート、『エグゼイド』パートと分かれている作りではないですよね。どのようにして合作作業が行われたのでしょうか。

 

武藤:内容的に、わりとガッツリ共作しているんです。最初に「こういう映画をやろう」と話し合った際、僕がみんなの意見をまとめてまずアウトラインとなるべきストーリー案を起こしました。その際に、日本がスカイウォールという壁で3つに分断されている『ビルド』と、スカイウォールが存在しない『エグゼイド』およびレジェンドライダーの世界観の違いをどうするかを考えました。

 

これまでの仮面ライダー共演映画で、時空を超えて別の世界同士のライダーが集う、というアイデアはわりかし使われていたのですが、パラレルワールドそのものを物語の主軸にすえて物語を作る、というのは無かったと思いまして。戦兎が天才物理学者という設定もありますし、パラレルワールドを映画の中できちんと説明して、互いに行き来が出来ない世界同士が融合する=破滅につながるという危機を設定し、これを阻止するためにどうするか、というストーリーを考えたんです。その後、高橋さんが第1稿、第2稿を上げられて。

 

高橋:『ビルド』に関しては詳しくわからないところがありますから、そこはざっくりと書いて、あとは武藤さんにお任せしました。僕は主に『エグゼイド』とレジェンドライダーのパートを書いています。

 

news.mynavi.jp

 

更に加えて、本作のレジェンドライダーの中でもひと際注目を浴びるオーズについては、主演を務めた渡部秀氏の尽力が大きい。

 

渡部氏は元々が仮面ライダーオタクで、『オーズ』の主演のために上京して気合たっぷりで撮影に臨んだため、当初はアンク役の三浦涼介氏に距離を取られてしまったりで現場の空気が殺伐としていたらしいが、最後には大の親友とも言える仲になり、そのキャスト陣の舞台裏での友情物語が『オーズ』本編とも符合するという、ファンにとっては「ありがとうございます」としか言えない背景が存在する本作。

今回も、渡部氏に届いたオファーを受けて、渡部氏から三浦氏へ「一緒に出ないか?」という誘いがかかった経緯があり、ファンにとってはその舞台裏までもが涙を誘う出演となっている。

 

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上でも少し触れたが、渡部氏がパーソナリティを務める『レジェンドの、向こうへ』という特別ラジオ番組がJFN PARKで公開されており、上堀内監督の裏話や、三浦氏との当時の思い出トークなど、ファン必聴の内容が展開されている。

 

ここから、第4回放送の渡部氏と三浦氏におけるトークの一部を引用したい。

 

渡部「今回ね、こだわったもんね。出るにあたって。台詞もそうだし、一番あったのは・・・ 俺が一番ファンの気持ちが理解できるから、俺が元々ライダーのファンってこともあって、『アンクが帰ってくるちゃんとした理由』が欲しかったんだよね。やっぱりどうしても、映画で少し出て、ということは簡単だけども、少しのシーンでも観てるみんなが納得できる復活の仕方というのを、今回求めてて・・・」

 

三浦 「うんうん」

 

渡部「で、今回りょんくん三浦涼介氏の愛称)が出るっていうのが決まって、そこから3人で色んな意見交換をしてさ、ここはこうした方が良いんじゃないか・ああした方が良いんじゃないか、という話を経てさ、今回の撮影に至ったわけじゃん。例えばアイスのくだりは、俺達を表現する一番大事な・・・ ある意味メダルよりも大事なアイテムでもあるのかな、ってのは一個すごい思ってて。そこでアンクのずる賢さとかさ、ただ単に協力するだけじゃないぞ、っていう小憎たらしさみたいなのも入ってるしさ・・・」

 

park.gsj.mobi

 

何よりも平成ライダーオタクで、誰よりもオーズファンである渡部氏自らのアイデアを大いに盛り込んだ「アンク復活劇&オーズの活躍」なので、そりゃあ、表面張力ギリギリの「愛」が溢れることは必然と言えるだろう。

 

だからこそ、あえて難点を挙げるとすれば、本作は非常に「二次創作」的な香りのする仕上がりとなっている。

 

世のオタクたちが「こんな形でレジェンドたちが再び活躍すると嬉しいな」と妄想するそのストーリーラインに限りなく近いものがまさかの公式によって映像化されており、「アンクの復活は嬉しいけどそう簡単に復活するのは違うよな~」とか「弦太朗のフォーゼドライバーは後に本人によって破棄されるからそことの整合性を付けて欲しいな~」とか、その手のオタクの妄想をことごとく設定面でクリアして全問正解で殴る! ・・・という未曾有の勢いが内包されているのだ。

だからこそ、その「オタク向けすぎないか」「あまりにもあざとくないか」「(我々にとって)近すぎないか」というあたりで拒否反応を覚えてしまった人がいたとしても、私は不思議には思わない。現に私も、「うっ!サービスが過ぎるのでは!?」となってしまったシーンが無い訳ではない。

 

しかし、その「二次創作」的な、あまりにも理想的なレジェンドたちの活躍を創り上げたのは、2作品連続で旗頭を務めるプロデューサーと、過去作を研究してリスペクトを重ねた脚本家コンビと、作品愛に溢れる主演俳優と、そして、長年製作現場の第一線で汗を流してきた助監督、という布陣なのである。(そしてその助監督の記念すべき映画監督デビュー作!)

確かにオタクに近すぎる作品だったかもしれないが、作り手の面々が込めに込めた「愛」ゆえの完成物が「これ」であるならば、私はやはり一介の仮面ライダーファンとして、感謝の意が何よりも先に立つのである。

 

よくもまあ、こんな作品を、こんなバランスで創り上げたものだ、と。よもやこんな「愛の塊すぎる作品」を観られる日が来るなんて、思ってもみなかったからだ。スクリーンから むんむん! と熱気が漂ってくるほどである。

そういった意味で、本作は私にとって十二分に「衝撃作」なのだ。

 

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さて、では、話を物語そのものに移したい。

 

本作は前述した「半ば暴走気味の愛とリスペクト」が物語そのもにも反映されている。『ビルド』のサブ主人公・万丈龍我という「新米仮面ライダー」の視点から、「仮面ライダーとは? なぜ仮面ライダーは戦うのか?」という、ヒーロー物の根本的な問いについて探る構成となっている。

万丈は『ビルド』TV本編でもつい数週間前に仮面ライダーになったばかりのキャラクターであり、彼に視聴者目線の役割を振るのは非常に理にかなっている。

 

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また余談だが、本作『FINAL』は『ビルド』本編第14話と第15話の間の話であると公式に明言されている。

主人公である戦兎がブラッドスタークに「お前がやってきたことは仮面ライダーごっこに過ぎない」という事実を突きつけられた直後の話であり、このタイミングで先輩たちと共闘して「仮面ライダーはなぜ戦うのか」を語り直す戦兎が映画で描かれたのは、もはや出来過ぎとも言えてしまうタイミングである。素晴らしい。

 

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万丈を視点にした「仮面ライダーとは」という語り口は、世界各国、はたまた宇宙の果てから駆けつける先輩ライダーたちの、その「駆けつける」行為そのものを「答え」とするものであり、レジェンドたちが豪華に出演するというメタ的な事情を物語の中に組み込んでしまうウルトラCでもある。

 

なぜ仮面ライダーは、誰に頼まれた訳でも、誰に感謝される訳でもないのに、それでも戦うのか。

万丈が抱く疑問はもっともで、しかし、それをレジェンドの誰もが言葉にして語るといった野暮なことはしない。ある者は届く限りの手を伸ばし、ある者は母校に駆けつけ、ある者は自分を育てた星を守るために、ある者は命を燃やし尽くす覚悟で、ある者は目の前の命を救うために、懸命に戦う。

 

その背中を見て万丈が「仮面ライダー」として決意する流れは非常に王道のそれであり、身近な存在である戦兎がすでに精神的にはレジェンドの域に達しているというのが(仮面ライダーとしての意義に辿り着いているのが)、最新作『ビルド』の魅力として軸がブレない。

 

また、世界観やテーマは異なったとしても、『ダブル』以降のいわゆる「平成二期」の作品群は基本的に明朗で肯定的なメッセージに満ちた作風が多く、それらのひとつの集大成としても、申し分ないバランスだったと感じている。

 

例えば、ファイズやカブトが出てきて「愛と平和のために!!それが仮面ライダーだ!!」と叫んだとしても、それはやっぱり「似合わない」と思うのだ。彼らの魅力が映えるのは、あまりそういう路線ではない。

これが一転して、オーズなら、フォーゼなら、鎧武なら、ゴーストなら。彼らなら、真正面から戦兎の言うところの「ラブ&ピース」を語っても、「似合う」。それが似合うほどに、作品それぞれがエンタメ性に満ちた人間賛歌として成立していたからである。

そういう意味での「二期集大成」として、本作『FINAL』はひとつの答えと言っても過言ではないだろう。個々が決め台詞を叫ぶあのシーンが、まさに象徴的である。

 

先ずもって、やはり「ありがとうございます」、そして「ありがとうございます」、続けて「ありがとうございます」という感想が出てきて、そうして、やっとこさ個々のシーンへの想いを語りたくなる。

そんな、極上すぎる「愛!過多!」なファンムービーとして、本作はシリーズを追ってきた人にこそ観て欲しい作品である。本当に、年の瀬に良い物が観れました。満足です。

 

・・・ただ、実際に今『ビルド』や『エグゼイド』に熱くなっている子供たちは果たして本作を楽しめたのか(レジェンドの続編的な作りや連打される設定説明がマイナスに働いていないか)という「気がかり」は確かにあって、でも、自分はもう「子供たちの目線」が枯れてしまった人種なのでそれを語れる立場に無く、本稿はあくまで「オタクの目線」に立って書かれています。

 

 

◆「平成仮面ライダー」総括記事

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