ジゴワットレポート

さようなら平成仮面ライダー【クウガ~ファイズ編】シリーズ黎明期の作品群は日曜の朝に何を提示したのか?




こんにちは、結騎 了(@slinky_dog_s11)です。

「オタクになったきっかけは?」という会話はオタク同士なら当たり前のように交わされるものだが、例えば学生時代の友人だとそれは『新世紀エヴァンゲリオン』だったり『灼眼のシャナ』だったりしたのだが、私の場合は間違いなく「平成仮面ライダーシリーズ」だった。“その枠”の番組は『ジャンパーソン』や『エクシードラフト』から観続けていて、もちろん『カブタック』や『ロボタック』も大好きだったけれど、やはり私を熱狂的にハマらせ・引きずり込んだのは『仮面ライダークウガ』だったし、それから18年、最新作の『エグゼイド』に至るまで、毎年新しい仮面ライダーを楽しみに生きてきた。もはや一介の視聴者のクセしてライフワークのような錯覚を覚えるほどだ…。

最近、仕事が忙しかったり子供が生まれたりして中々まとまった時間が取れず、ブログの更新もおろそかになっていたので、「何かある程度の文量でガッツリと書きたいなあ」という欲が湧いてきた。そして、とにかくガッツリ語るのなら …すぐに候補に浮かんだのが「平成仮面ライダーシリーズ」だったという訳である。そんなこんなでこの記事は、同シリーズについてリアルタイムで観続けた上で感じた様々な想いや考察を、自らの過去記事も引用しつつ脈絡なく溢し続けてみようかな、という内容である。一応『クウガ』から順に辿るが、多分話があっちに行ったりこっちに行ったり、とにかく全18作を俯瞰して語る視点と平行なので、本当に暇な人だけ、良かったらお付き合いください。
 

 
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早速だが、まずもって仮面ライダークウガである。言わずと知れた平成仮面ライダーシリーズ第1作であり、今なお根強いファンが多いことで有名だ。幼心に記憶に残っている『RX』以降、テレビでレギュラー放送される仮面ライダーは存在しなかった。そんな沈黙を破り、第1話開始のファーストカットで「この作品を 故 石ノ森章太郎先生に捧ぐ」と掲げてみせた本作は、非常に神経質な作りで、それでいて病的なまでに革新的だった。




仮面ライダークウガ」は、非常に神経質な作品である。本当に、病的なまでに神経質だ。場面が切り替わると、画面下にその場所名と現在時刻が分単位で表示される。「実際に怪人が出現したら警察組織はどう対応するのか」。本物の警察に取材に行き組み上げたというその設定は非常にリアルであり、ヒーローであるクウガも“未確認生命体”として銃殺されかけてしまう。その登場人物はなぜこのような行動を取るのか。今現在何に悩んでいるのか。何を抱えているのか。「ヒーロー番組だから」という言い訳を絶対に用いず、一般のドラマと同じ目線でそれらを描き切った。

仮面ライダークウガという呪縛



引用した過去記事でも書いたが、それまでの特撮ヒーロー番組の多くに「ヒーロー番組だからこその展開」というのはやはり確かにあって、それは悪く言えば「子供だまし」「ご都合主義」、善く言えば「分かりやすさ」「とっつきやすさ」であった。その展開や演出の是非を語るつもりは毛頭ないが、『クウガ』は病的なまでにそういう展開を廃し、とにかくリアルに・一般ドラマのように組み上げたのが最大の特徴と言えるだろう。「異形の存在が実社会に突然現れたら、各種機関はどのような対応をするのか」。そういうリアルシミュレーションの側面で言うならば、昨年公開の『シン・ゴジラ』と非常に近い作品とも言える。

「古の闇より……(デンデン!)目覚めしものは……(デンデン!)」という立木文彦ボイスが印象的な予告編からして、当時『カブタック』や『ロボタック』に慣れていた自分には随分な衝撃だった。『仮面ライダー』と怪奇路線が云々という知識もあの頃は勿論持っておらず、なぜ日曜の朝からこんな陰惨なものが始まるのかと、正直観る前はかなり身構えていた記憶がある。それがいざ始まってみると、予告で登場していた赤いクウガは姿を見せず、ひ弱な白いクウガが敵に辛勝するといった、これまたとてもショックな内容が繰り広げられた。年齢的にいわゆる「戦隊モノ」を卒業するか否かという岐路に立っていた自分には、思いっきり頭を殴られ“その道”に引き戻された感覚があった。

トーリーとしては、あからさまに怪人然とした異形の着ぐるみが登場するのではなく、我々の実社会にいつの間にか入り込み暗躍する古代種族との戦いが繰り広げられた。例えば地下鉄サリン事件は95年の出来事だが、「いつどこで我々と同じように振る舞う人間が危害を及ぼしてくるか分からない」といった放送当時(00年)の社会全体が抱く不安や漠然とした恐怖のようなものを、グロンギという種族は的確に体現していたように感じる。次第に日本語が達者になる彼らに抱く恐怖には、背筋が凍るものがある。

そんな『クウガ』だが、十数年経った今改めて考えると、実はクウガのフォーマットはあまり現在の同シリーズには継承されていないな、と感じる。高寺プロデューサーを中心とした製作陣の一度切りの濃厚変化球といった印象で、近年の平成ライダーのフォーマットの祖となっているのは次作『アギト』だったり『電王』『ダブル』あたりを挙げるのが適当だろう。というより、『クウガ』のような球は“色んな意味で”もう二度と投げられないだろうと思うし、その事実が今でも根強くファンに愛される所以なのかな、と。





続く仮面ライダーアギトは、前述のように、実質的な「平成仮面ライダーシリーズ」の祖と言えるだろう。『クウガ』が描いた連続劇に群像劇要素を付加し、更にはミステリー・謎解き・ファンタジーの要素まで盛り込んだ。メイン脚本をつとめた井上敏樹氏が実は「あかつき号事件」の詳細を特に考えずに先に謎だけ提示しておいたというのはファンには有名な話だが、そういったミステリー要素が強い“ヒキ”を生み、視聴率は万々歳の結果だったという。『クウガ』における敵組織の背景は「そういう種族だから」という割り切りで一種完結していたが、『アギト』ではそれを引っ張りに引っ張って物語最大の謎と結び付けた。なぜ津上翔一は記憶を失くしたのか、なぜアンノウンは人間を襲うのか。それが、果てには神話の世界のような壮大な叙事詩に発展していく…。

『アギト』が盛り込んだファンタジー要素(神々の戦い)そのものは、特撮ヒーロー番組では(戦隊を含め)従来から使用されてきた要素ではあるが、これを『クウガ』が挑戦したリアル調連続劇の中でやるという試みそのものが、『アギト』成功の最大要素ではないだろうか。また、「既に仮面ライダーである男・仮面ライダーになろうとする男・仮面ライダーになってしまった男」という切り口も非常に面白く、「仮面ライダー」という呼称こそ劇中には登場しないものの、異能のパワーと向き合う男たちの苦悩とすれ違いのドラマは観る者を夢中にさせた。「記憶(=アイデンティティ=居場所)を失くした青年が、みんなの居場所を守るために戦う」という翔一が辿ったテーマも、『クウガ』の雄介とは違う意味で“みんなのヒーロー”を体現していたように思える。

個人的に好きなのは、後年の『ディケイド』における「アギトの世界」で、ギルスに「アギトの成長過程の姿」という設定が与えられたことだ。原典でのギルスは「アギトの亜種」となっていたが、これを踏まえた上で作品主人公であるアギトを魅力的に魅せるための気の利いたアレンジだったと感じる。同時に、ユウスケがG3装着者になるのも『アギト』の企画経緯を思うとニヤニヤできる展開であった。(当初『クウガ』の続編として話が進んだが、という例のアレ)

前述のように『アギト』が持ち込んだミステリー要素は、その後も「なぜライダー同士の戦いは始まったのか」「なぜファイズのベルトは造られたのか」「なぜアンデッドは解放されたのか」から「なぜゲーム病やバグスターが発生したのか」に至るまで、シリーズに欠かせない縦軸の要素として継承されていく。そのほかにも、群像劇の要素が『龍騎』『ファイズ』『鎧武』に、ライダー同士が争う部分は『剣』『カブト』『エグゼイド』らに、そうして今もプロット作成の第一線に持ち込まれるであろう部分として確立されている。今でこそ「平成一期らしさ」「平成ライダー初期っぽさ」などと挙げられるイメージは、その多くが『アギト』に拓かれたものではないだろうか。





そんな群像劇の要素を継承しつつ、多種多様な正義とゲームっぽい争いの構図で人気を博したのが、シリーズ第3作となる仮面ライダー龍騎だ。「多種多様な正義」については白倉プロデューサーが各種インタビューで述べているとおり、同時多発テロの発生に影響を受けたものである。世界中で揺らぐ正義の定義について、その“揺らぎ”をそっくりそのままライダー同士のバトルロイヤルに落とし込んだ。「ゲームっぽい争いの構図」はカードと電子音声の組み合わせから受ける印象で、遊戯王をはじめとするTCGが大流行していた時勢ならではの要素とも言えるだろう。そんな、ゲームっぽいシステムの中で悲惨な殺し合いが行われるギャップこそが、今作最大の魅力でる。

話が横道に逸れるが、平成ライダーにおけるカードというのは非常に面白い変遷を経ている。『龍騎』におけるアドベントカードは、最初から各ライダーに付与されたデッキそのものであり、ライダーによって同じものを複数枚所持していたり、凶悪なカードを所持していたりする。「ソードベント」「ガードベント」「ファイナルベント」といった用途別のカテゴリー分けがなされており、新ライダーが登場した際に「こいつの〇〇ベントはどんなのだろう」という想像を掻き立ててくれた。続く『剣』では用途別の仕分けを廃し、カードそのものに「アンデッドを封印する装置であり実質モンスターボールである」というストーリー上の意味を盛り込んだ。これにより、「ヒューマンアンデッド」や嶋さんといった要素が生まれ、カードが単なるコレクターズアイテム以上の価値を持つこととなる。

そしてその集大成となる『ディケイド』だが、これが『龍騎』と『剣』の見事な合わせ技であり、「アタックライド」「フォームライド」といった用途仕分け、そして「対象のライダーと心を通わせて初めて使用できるカード」というストーリー上の意味をも内包するスペシャルな存在に仕上がっていた。しかもほぼ同時期スタートの「ガンバライド」でも使用できるとあり、驚異的な魅力を兼ね備えていたことは、もはやシリーズファンには言うまでもないだろう。そろそろ、第4のカードライダーが登場する頃かな、とも思うが…。

本筋に戻るが、『龍騎』の話をする上で避けては通れないのは、ラストの解釈である。まさかの最終回前の主人公死亡、そして、勝ち残った蓮や神崎兄妹は一体何を願い、どのような結果が訪れたのか。巨悪を倒してハッピーエンドという“わかりやすい”エンディングでなかったからこそ、その引っ掛かりは今でも脳裏にこびりついている。私の解釈は、以前の記事にも書いた、以下のものである。




しかし、あの最終回に、当時の私は納得できなかった。真司が頑張ってきた1年間が、どこか無駄に思えてしまったからだ。結局、全ての死んだ人間が生き返り、リセットされた。真司の奮闘はなんだったのか、と。

この違和感を飲み込むには、数ヶ月かかった。何度も録画を観て、ネットに書き込まれた解釈を探し読み込み、やっとのことで納得した。あれは幾度となく繰り返された戦いの最後の1回であり、真司が1年間走り回ったからこそ、「神崎優衣が命を拒否し兄の説得に成功する」というエンディングを成立させたのだ。真司の行動は、決して何かのボスを倒した訳でも、明確な答えに辿りついた訳でもない。自己犠牲でも、どのライダーを助けた訳でもない。ただ、城戸真司が秋山蓮と共に神崎優衣に関わり、その戦いを止めたいという思いと悩みを1年間彼女に見せてきたことが、あの“終わり”を導いたのだ。その解釈に納得できて初めて、私の中の「仮面ライダー龍騎」は完結したのだった。

仮面ライダー龍騎に狂酔した中学2年生の1年間



この解釈は本当に人それぞれだと思うし、むしろ『龍騎』が提示したテーマやメッセージというのは、単に真司のように「諦めずに愚直に頑張ること」に収束するとも考えられない。これは続く『ファイズ』も含め、白倉プロデューサーが深く関わった作品群は、明確な“答え”を提示することを目的とはしていないように感じる。結局は「各々の信念が究極の正義」とでも言うのだろうか、「こちらとしては様々な正義や考え方を取りそろえるので、観た人が各人で“答え”を見つけてください」、と。あからさまな疑問提示型・問いかけ型の組み立ては、ともすれば「投げやり」とも取られ、しかし“効いた”人には永遠の難問として降りかかる。五代雄介による「本当は綺麗事が良いんだもん」という、あえて言えば究極のエゴのような価値観で作品を包み込むのとは違う手法、エゴとエゴとのぶつかり合い“そのもの”がテーマとでも言うべき「ズルい」作り方。それが、『龍騎』で遂に確立されたシリーズにおけるひとつの方向性だったように思える。

否定から生まれた『クウガ』、それを発展させた『アギト』、そして続く『龍騎』はその双方を真正面から否定して新たなステップを踏んでみせた。そういった、否定と革新とトライ&エラーこそが、この時期の平成ライダーが吹かせていた新風そのものだったのではないだろうか。また、『龍騎』の「電話投票で結末が決定」「最終回先行映画化」といったセンショーナルな取り組みも、後年の「スーパーヒーロー大戦」や「昭和vs平成」といった話題重視の概念の雛型と言えるのかもしれない。




昭和ライダーの世界観と違い、平成ライダークウガ以降各々が完全に独立しており、“先輩ライダー”という概念が長らく消滅していた。だからこそ毎年野心的な設定で作風をどんどん変えていけるのが強みであり、その決定打となった龍騎や、意欲作である響鬼など、「不揃いという統一感」が売りのシリーズだったと言える。

完全なる伏線消化。「仮面ライダーディケイド」の最終回とは一体なんだったのか



「不揃いという統一感」、といった言葉遊びのようなこの形容こそが「平成ライダーっぽさ」だと思うし、それを決定付けたのが『龍騎』、その不揃いさをリセットしてしまった『ディケイド』、続くいわゆる“二期”の作品群は前述の形容に馴染まなくなっていくのだが、これはまた後の作品群で話題にしたい。





ホップ・ステップ・ジャンプを終えた平成ライダーが展開したのが、仮面ライダーファイズだ。ある意味『龍騎』で最も廃された「敵怪人そのもののドラマ」にスポットを当て、実質のダブル主人公物として本作は幕を開けた。井上敏樹氏における全話執筆は今でも語り草だが、実はマジで同じ人が書いているのかというくらいに整合性の側面がガタついていたりもする。しかし、それを補って余るブーストは凄まじく、シリーズでもトップクラスに湿度の高い物語に当時の私は心底夢中になった。すれ違いや勘違いによるあの独特のもどかしさが、かっこよすぎるギミックで活躍するライダーたちの戦いにまでもつれこむ。この唯一無二の中毒性は、本当にクセになるのだ。




ファイズという物語は決して人間とオルフェノクという単純な善悪構造ではなく、人間と人間、オルフェノクオルフェノク、種族に関わらず矢印が交わりまくるのがポイントだ。怪物同士が争うのもこの物語の大きな特徴で、平成ライダーで初めてこれを本格的にやったのも、このファイズである(クウガの終盤や龍騎のミラーモンスターなど前例はいくつかある)。オルフェノクといえどそれは「個人」であり、主義主張の違い、そして信念が交わらなければ、当然のように憎しみ殺しあう。ただ単に、その手段をその身に宿しているか否かが、人間と違うだけ。

仮面ライダーファイズ 8話「夢の守り人」の欠点



劇中では、オルフェノクを滅ぼさんとする人間による組織が登場したり、また、対するオルフェノク側も、人間をいかに滅ぼし自らが優位に立つかを常に組織的に模索していた。最終的にその対立構造は「滅びの運命とそれを回避できるオルフェノクの王の存在」というギミックにより整理されていくのだが、それはあくまで物語上の“終わり”に向けて組み上げられたパズルに過ぎず、本質的な差別や種族争いの問題は何一つ解決することはない。盛大に、議題を投げ散らかしたまま終わるのである。前述の「エゴとエゴとのぶつかり合い“そのもの”がテーマ」というのは、この点のことである。

オルフェノクというのは人間が人外のパワーを身に着けたにすぎず、だからといって即人を襲う化け物になるかといえば、そうではない。人を殺せる力、身勝手に断罪できる手段をある日突然手に入れてしまった時、“人”は果たして倫理観や価値観を変えずにいられるのだろうか。その顛末は、開始早々の第2話ですぐに木場の行動として描かれる。そうした、オルフェノクをあくまで人間と“地続き”で描くからこそ、世界中で差別や争いが今もなお無くならないからして、ファイズが抱える問題も絶対に「解決」しないのである。この「解決しないことこそが到達点」というのは、後年の『仮面ライダーアマゾンズ』でも描かれたものだと解釈している。




視聴者は、悠と仁のどちらにより共感できるのか(もしくはどちらも理解不能か)の三択を無意識に突きつけられる。悠の考えはどこまでいっても「甘ちゃん」であり、例えアマゾンでも暴走したら粛清するしかないと、究極のワガママをパワープレイで貫き通そうとしている。対する仁は、卵を食べるのと同じように、殺された者は喰われて然るべきだと、元来からのアマゾンへの過剰な恨みを決して曲げようとはしない。ブレる線引きを力尽くで主張するアマゾンと、ブレられない意固地な線引きを力尽くで主張するアマゾン。億単位の人間誰もが種レベルでの解答を提示できないのだから、後は争うしかない。意見が違えば争い合う、これに限っては、人間に限らない多くの生物が繰り返してきた所作なのだから。

だから、私はこの「対立エンド」がこの上なくアマゾンズらしい帰結であり、中途半端でも何でもなくて、ドンピシャな落とし所だったと捉えている。悠は、自分が明確な答えを示せないからこそ、その「示せない」だけは貫く。そうやって、アマゾンだけのコミュニティのぶれぶれな長(おさ)として君臨する。あの海辺では、何度もアルファとオメガの戦いが繰り返されてきたのだろうし、これからも続いていくのだろう。だからこそ捕食カーストで、だからこそアマゾンズなのだ。あの戦いが、詰まるところ「主張のぶつかり合い」が、永遠に続いていく(解答が提示されない)。これこそが、この問題を手がけたからこそ落ち着くべき地点なのだ。

【総括】「仮面ライダーアマゾンズ シーズン1」 “仮想敵”を喰っちゃいけない理由なんて、どこにもない



「『アマゾンズ』における平成一期らしさ」という議論はネットでよく発生するものだが、私はこのような「明確な答えに辿り着かないという答え」を提示する手法をもって、同作は非常に「一期らしい」と感じている。『龍騎』や『ファイズ』がこの辺りのエッセンスを非常に色濃く持っており、それを2016年にまたやってみせたことが『アマゾンズ』の面白さだったのではないだろうか。どこまでも、白倉プロデューサーの筆癖とも言える。

また話が逸れてしまったが、そんな解決の見えない命題にジメジメと取り組んでみせた『ファイズ』の要素も、いくつか後年の作品に継承されている。グロンギやアンノウンともまた違う、完全に“組織”としての敵。それが大企業の皮を被っていることが(当時における)現代的な描き方であり、後年のゼクトユグドラシルがこれに相当するだろう。また、実質ダブル主人公が時に対立し・時に共闘し最終的に雌雄を決するというフォーマットは、言うまでも無く『鎧武』が踏襲したものでもある。ミッションメモリというベルトに装着されたチップを各種アタッチメントに備えることで技を発動させる一連のギミックも、『ダブル』以降のコレクターズアイテム商法の原型と言えるだろう。(正確には、ガイアメモリ以降のアイテムに伴う技発動シークエンスの源流とも言える、の意)


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「シリーズが続くか否か」すら安定していなかったこの時期、『クウガ』から『ファイズ』までのいわゆる「平成ライダーシリーズ黎明期」は、色んな意味で“攻めた”作品ばかりである。その姿勢そのものが美徳だとは言わないが、確かにその方向性こそがこの時期のシリーズを牽引していたように思える。なぜ“攻めた”のか、どのように“攻めた”のかは、この記事でも散々語ったことだが、この時期にガツンと殴られ続けたからこそ今でも同シリーズが大好きな自分がいることは間違いない。

そんな「平成仮面ライダーシリーズ」も、まもなく終わりを迎える。そう、言うまでも無く「平成」が終わるのだ。果たしていつから「平成ライダー」という呼称が用いられたのか記憶は定かではないが、「昭和vs平成」をやってしまう程にその区分けを意識してきた同シリーズだからこそ、年号の切り替えと共に何らかの「集大成」や「お祭り」や「新生」をやってのけることだろう。それに伴い、過去に関わった多くのスタッフやキャストからも、『クウガ』から続く全平成作品を振り返る総括的なインタビューや回顧録が並んでいくことは想像に難くない。

一介のファンとして、「あえてそれが出そろう前のこのタイミングで、【さようなら平成仮面ライダー】と銘打ってひたすらに自らの想いを語り尽くしてみよう」、そんな思いで、ダラダラと書き続けてよもや9,000字を目前としているのだが、単純計算でこのまま『エグゼイド』までいくと40,000字を超えてしまいそうで、いくらなんでも“しんどい”だろう …という言い訳配慮のもと、取りあえず『クウガ』から『ファイズ』までで一旦区切っておきたいと思う。

続く『剣』以降もこんな感じの語り口で、近日更新予定です。
 
◆続編

jigowatt.hatenablog.com

 
※当記事は引っ越し前のブログに掲載した内容を転載したものです。(初稿:2017/5/8)