ジゴワットレポート

何十年か後にまた観て泣きたい『カーズ クロスロード』

 

トイ・ストーリー』世代で、ちょうどアンディと同じ大学生の時分に『3』を観で大号泣した自分にとって、やはり「ピクサー」という4文字はいつまでも特別だ。

 

そんな「ピクサー」が2017年におくるのが、『カーズ クロスロード』。

「おもちゃの世界」「モンスターの世界」「魚の世界」といったアプローチに並ぶ、「クルマの世界」のシリーズ3作目。

 

www.disney.co.jp

 

このシリーズ自体は本当に大好きなのだが、何度観てもオイオイ泣ける1作目に対し、「なんでこうなっちゃったかなぁ~」という感じの2作目という印象で、この3作目を観るにあたって、まさに期待半分・不安半分。

結果として作中のマックィーンのごとく「大事故」を起こすことはなく、「うんうん、そうだよね」というゴールに進んでいく物語に感慨深くなるタイプのやつでした。

 

※以下、映画本編のネタバレがあります。

 

 『カーズ』の面白いところは、もちろん「クルマの世界」という世界観設定そのものにあるのだが、目と口がある車というのは特段「新しい」アイデアではない。

日本にも『ぶぶチャチャ』という作品があって・・・ という話は長くなるので置いておこう。

 

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じゃあ、なにが『カーズ』(1作目)の「面白さ」だったのかというと、①知的好奇心をくすぐる世界観設定の魅せ方、②人間の世界に置換しやすい分かりやすい物語、といった部分ではないだろうか。

 

①については、飛んでいる羽虫ですら羽の生えた車という常軌を逸した世界で、「レース」という競技が大人気であるという面白さ。

車なのだから、当然「走る」ことが彼らのメイン機能なのだが、それは我々「実社会に生きる人間」目線の話でしかなく、車のみの世界に生きる彼らの「走る」とは我々の知る「走る」と一見同じようで全く異なる。

移動手段ではなく、我々がスポーツに熱中してプロ選手になるように、オリンピックを手に汗握りながら応援するように、彼らの世界に「走り」が存在しているのだ。

そういった、脳が自然と受け入れる設定が実はよくよく考えると面白い(考えなくてもOKなところがミソ)、という部分が、知的好奇心をくすぐってくれる。

 

②は文字通りで、「調子に乗ったヤンチャなルーキーが勝つことが一番大事ではないことを覚える」というプロットは、世の中に沢山溢れているタイプのものである。

私が大好きな『ドラムライン』という映画も典型的なコレだ。

 

ドラムライン (字幕版)

 

「分かりやすい物語」と書くと、どこか単純すぎてダメみたいなイメージもあるが、「分かりやすい」ということは、それをしっかり紡ぎさえすれば「みんなが楽しめる」ということだ。

『カーズ』はこれを地でいっていて、王道・典型的すぎる先のプロットを枝葉まで完璧に調整した結果、笑って泣けて熱くなる名作に仕上がっているのだ。

 

「蝶のように舞い・・・」「蜂のように刺す!」。

終盤のマックィーンとドックのこのやり取りに物語の素晴らしさが凝縮されており、何度観ても「ズルいなぁ」と感じながら涙を流してしまう。

 

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続く『2』は上にも書いたように、ぶっちゃけ微妙であった。

続編なのだし、メーターを主人公にするのは良いとして、(そういうテーマだと分かってはいながらも)あまりにアレすぎるメーターに次第に腹が立ってしまうし、スパイ大作戦な世界観もあまりにも前作とかけ離れていて、「続編」とは諸刃の剣だということを久々に思い知らされたのを覚えている。

「なにを作っても割と傑作」というピクサーの作品群の中で、私の中でもかなり残念な方に属してしまっている。

 

エンジン

エンジン

 

だからこそ、『3』たる『クロスロード』を観るのは少し怖かった訳だが、1作目が大好きな自分にとって、壮大なるエピローグのような作りになっていた。

というより、「リプライズ(反復)」というか、あえて意地悪な言い方をすれば「1作目の焼き直し」とも言える仕上がりだったのだ。

 

もちろん、「焼き直し」とはマックィーンがドックの立場になることで物語が繰り返されていくことを指している。

「好きなこと」「夢見てきたこと」「やりたいこと」「頑張ってきたこと」が出来なくなった時に、じゃあどうするのか ・・・という作品テーマは、マックィーンも、ドックも、そしてそれを観ている我々も大なり小なりいつか必ず辿り着く壁である。(つまり前述の②)

そういった「引き際」の物語として、本作は1作目同様、捻ることなく真正面から答えを出している。

 

「今まで」に疑問符を投げかけられた主人公が、「今まで」より大事な本質に気付く。

そうした1作目のテーマに被せる形で作られており、最後のレースシーンで特訓で覚えた技が次々と炸裂していくのも、当然のように1作目を意識した作りだろう。

シリーズファンなら、「ああ、最後にドックのようにクルーズが宙を舞うんだろうな」と察しがついているのだが、それでもしっかりグッと感じさせてくれるのはお見事。

 

結局、「生きていくこと」の盛り上がりが下り坂に入ったとしたら、次に大事なのは「伝えていくこと」なのだろう。

あのヤンチャルーキーだったステッカーくんが、いつの間にか「伝えていく立場」になった。

その変遷だけでも泣けてくるし、どこか「終活」というキーワードが頭をかすめていくのも良い。

 

 

新世代の車たちは、流石にライバルたるジャクソン・ストームは性格クソ野郎に描かれたものの、基本的に「悪」ではない。

 

「新しい」ことは「悪い」ことではないのに、それでもなぜか、心の中のモヤモヤが「新しい」ことに拒否反応を示し出す。

「速さを求める」ことはレースをする車なら当然のことなのに、シミュレーターを駆使して科学的にはじきだされた「速さ」には言葉にできない嫌悪感がつきまとう。

なぜ、非科学的なタイヤを泥まみれにするトレーニングは「どこか美しく正しいもの」のように感じてしまうのだろう。

 

そう思ってしまったのなら、自分ももう「古い」側の人間ということかもしれない。

 

人の価値観は十数年でほぼ完成されてしまい、後からそう簡単に変化しないという話を聞いたことがある。

だから、10歳そこらの頃に出たゲーム機にはいつまでも「新しい匂い」を嗅いでしまうし、30も近くなると「ついていけない・・・」という言葉を漏らすことが多くなる。

価値観や感覚、培ってきたものは、そう簡単には変えられない。

 

本作のマックィーンは、1作目以上にそんな精神的な壁にぶつかることになった。

彼に訪れた真の転機は、次世代の車たちが技術的に速いことではなく、それに臆して自分を見失ってしまう戸惑いそのものだ。

そして結局、彼は彼なりの「曲げられた部分」「曲げられなかった部分」の線引きに成功したし、それは他の誰でもなく彼自身の決断によるものだった。

 

自分もいつか仕事を辞める日がくるのだろうし、自分のやり方が通用しなくなり、社会の本流から外れる時を迎えてしまうのだろう。

その時に、後悔しない「線引き」が出来るのか。

『カーズ クロスロード』は、そんな何十年か後にまた観ると、おそらく今以上に泣けてしまうのだろう。

 

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