ジゴワットレポート

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映画とか、特撮とか、その時思ったこととか。

【総括】小説で真に完結する「仮面ライダー鎧武」。リプライズされるシリーズへの色目と継承の物語

 


 発売から約2ヶ月が経ってしまったが、やっとこさ「小説 仮面ライダー鎧武」を読了した。

 

TVシリーズ最終回後、もっと正確に言うと「MOVIE大戦フルスロットル」におけるメガヘクス襲来やOV鎧武外伝におけるナックル奮闘劇の、その更に後の時系列に当たる物語。そこでは、呉島兄弟を中心とする“残されたライダーたち”の戦いが描かれていた。これがまた非常に面白く、鎧武シリーズ全てを総括する内容でありながら、「平成ライダーシリーズにおける仮面ライダー鎧武」という立ち位置までおさらいしてしまうような、とても豪華な仕上がりであった。

改めて「仮面ライダー鎧武」とは、一体全体、何だったのか。幾度となくこのブログでも作品の特異性には触れてきたが、一言でいえば「二度とは出てこない作品」だったなあ、と。それは、良い意味でも、悪い意味でも。平成二期ライダーが一種の飽和状態を迎えたからこそ、それを打破しようともがいた製作陣の奮闘。特撮ヒーロー畑に不慣れながら、己の持ち味をドロドロに零し上げた虚淵脚本。フレッシュなキャスト陣による体当たりの一年間に、史上単体最高額なコレクション玩具であったロックシード。もちろん、挑戦には綻びも付き物で、荒削りな面や突っ込みたい部分も沢山あった。とはいえ、それらも全て飲み込んで未曾有の勢いにしてしまえるくらいには、何とも形容しがたいパワーのあった作品だったと思えてならない。





玩具を沢山売らなきゃならないのなら、玩具が沢山出てきても違和感のないそれらを奪い合うストーリーに。主人公だけに強化アイテムこと追加玩具が多発するのならば、主人公はいずれ神になってしまうほど歪に優遇された立ち位置に。どこまでが意図された物かは分からないが、平成二期ライダーが迎えていた「玩具販促による物語展開のしばり」を逆に利用してやろうと、そういう気概が見え隠れしていたような気がする。そんなロードマップの中で、特撮ヒーロードラマの経験が無かった脚本家(チーム)による物語は、台詞回しや演出がこれまでのシリーズとは一線を画しており、良くも悪くも「なんか違う」映像を楽しむことができた。

ストーリーはハードな自然侵略物としての輪郭を持ちながら、ファイズを思わせる怪しい巨大企業の計画、龍騎を思わせるライダーバトル展開、アギトを思わせる神話的な設定から、クウガのような人から堕ちゆく自己犠牲の精神など、意図的に散りばめられた「平成ライダーらしさ」がまたひとつのポイントとなっており、好きな人にはシリーズへの好意的な目配せに、好まない人には見飽きた二番煎じに、そうやってネットでは毎週のように毛・不毛な議論が交わされた。もはや、遠い日の懐かしさに成り果てているけれども。

そんな鎧武の物語は、前述のような自然侵略物として、ヘルヘイムの地球侵略(押し付けによる進化促進自動プログラム)という圧倒的な“津波”の前に、なす術なく首を垂れるのか、第三の道を模索し戦い抜くのか、選択を迫られた人間たちの濃密な群像劇に仕上がった。東北の震災を経ての「大きすぎる自然災害の恐怖」を描いたとメインライターの虚淵玄は語っているが(星海社仮面ライダー鎧武 ザ・ガイド」)、同時に、特にクウガの頃に色濃かった「気づかぬ身近にある死の恐怖」という面も、まさに初瀬というキャラクターを通して描かれたのかもしれない。

彼は、最後まで自分が一体何に巻き込まれて死んだのか分からなかっただろうし、主人公である紘汰が(クリスマスロックシード争奪戦を開催することで)彼の死の遠因を担ってしまったのも、非常に皮肉な話である。重ね重ね、そういった分かりやすいまでの平成ライダー(一期)への目配せがウザったらしい人もいただろうし、とはいえ私は「二期ビジネスの中で一期の頃のシリアス&ハードをやってみる」という挑戦そのものが非常に面白く、成果物の歪さに毎週楽しませてもらっていた。





さて、鎧武のストーリーは語り出せばいくらでもフックがあるが、Twitterでも何度も呟いたように、私には個人的なこだわりがある。それは、「鎧武 第5話の重要性」だ。鎧武という物語は第5話がひとつの頂点というか、これが実は全てのストーリーをコンパクトにパッケージしたような面白さを持っているのだと、私はそう信じて疑っていない。




そんな戦いの現場に紘汰が舞(志田友美=二役)と駆けつけた。龍玄を助けたい紘汰だが、変身しないと誓った今、「逃げろ!ミッチ」と声をかけるのが精いっぱいだ。それでも戦うことをあきらめない龍玄。「負けられない…紘汰さんが…舞さんが、見てる…ッ!」。一方的にバロン、インベスの攻撃を浴び続けながらも龍玄は逃げようとしない。

そんな龍玄を見た舞が、紘汰の前でポツリとつぶやく。「きっと、紘汰が見ているからだよ」。龍玄=光実は紘汰に憧れ、励まされて自らも強くなろうとした。そんな光実が紘汰の前で逃げ出せるはずがない。 そんな舞の言葉にショックを受ける紘汰。「舞、ベルトをくれ」。逡巡する舞に向かって、今度こそ自分のために戦いたい、と力強く言い放つ紘汰。舞もその言葉に気圧されるようにガレージへと戻ると、鎧武(ガイム)の戦極ドライバーとロックシードを持ち出し、紘汰に投げる。

俺にしかできないことを引き受ける!ついに紘汰は仮面ライダー鎧武(ガイム)に再び変身!「ここからは俺のステージだ!」。高らかに宣言すると、龍玄とバロン、インベスの戦いに割って入る。

力を示し、弱者を支配することが強さだというバロンに対し、誰かを励まし、勇気を与える力こそが本当の強さだ、と戦う鎧武。そんな鎧武の言葉に打たれた龍玄も復活。イチゴのロックシードを鎧武に投げると、鎧武はイチゴアームズにチェンジする。そして、鎧武と龍玄は力を合わせ必殺技を。2体のインベスをみごとに撃破する。

第5話「復活!友情のイチゴアームズ!」[2013/11/10](テレビ朝日「仮面ライダー鎧武」公式HP「ストーリー」)







鎧武とは、どういう物語だったのか。紘汰と戒斗、主義主張の異なるふたりが信念を懸けて闘い合い、それに複数のライダーが群像劇のように絡み合い、最後には紘汰とミッチによる“継承”の関係性がひとつの落とし所となっていた。第5話にはこれが全て詰め込まれており、(まだヘルヘイムの「ヘ」の字も出てきていないダンスチームの縄張り抗争だったとはいえ)、紘汰とミッチが互いに互いの強さで強くなり、そして戒斗と紘汰が強さの定義を拳に込めて殴り合う。これは、TVシリーズ第45話のインベスを引き連れた両雄決闘のシーンがリプライズになっていたり、言うまでもなく最終回に紘汰の助けを借りつつ奮闘するミッチの姿にまで繋がっていく。鎧武という物語が一年かけてやってきたストーリーの、そのポイントとミソを必要最低限拾い上げ、プレロードマップ的にひとつのストーリーに落とし込む。それが、仮面ライダー鎧武の第5話だと思えてならないのだ。

そうであるからして、私にとっての鎧武の物語は、ひいては「ミッチの物語」というのがひとつの解釈のゴールになっている。これは「MOVIE大戦フルスロットル」におけるメガヘクス襲来編でも部分的に証明されたというか、つまりは運命に翻弄されたのが紘汰と戒斗で、両者ともそれまでの形(普通の人間)から脱し(人外化・死亡)、その運命の濁流を全て受け止め今後に活かさねばならぬ“生き残ってしまったからこそ”の生き方を全うしなければならないのが、呉島兄弟という構図である。思えば第1話アバンタイトルでも鎧武とバロンの激突を高い位置から呉島兄弟が眺めており、彼らが生き残り、“見届け受け止める役割”を担うに至ったのは、ある種の必然だったのかもしれない。この場合、主義主張に盛大に散った方が、あるいは幸福だったのかもしれないのだから。





その他、鎧武という作品の特異性や気になる点は過去記事『「鎧武」は相当な難産だったのではないか ~製作逆順で「魔法少女まどか☆マギカ」を観て感じた事』等でも散々書いてきたが、大きくふたつのポイントを挙げるのならば、平成ライダーシリーズとしての仮面ライダー鎧武」、そして「ミッチという存在に収束していく強さと継承の物語」、これが私の感じる“鎧武とは”の解答である。そもそもの作品が持つカウンター性を考えるならば「平成ライダーとして」のメタ的な視点はカウントせざるを得ないし、当初は死を遂げる予定であったミッチが最後には生き残り真の主人公として成立した流れは、やはり1年間の長丁場を走り抜ける醍醐味であると言えるだろう。

「継承」、つまり「受け継がれる」という点では、OVで展開された鎧武外伝シリーズも、また色濃くそのニュアンスを持っていた。「仮面ライダーナックル」では戒斗の意思を継いだザックの戦いが描かれたし、「仮面ライダーバロン」でも一人二役の中で強さと意思が受け継がれる展開があった(シャプールはまさかの小説版での再登場を果たす)。その中でも、今回の「小説 仮面ライダー鎧武」に直接繋がってくるのが「仮面ライダーデューク」であり、亡き戦極凌馬からの「継承」を“自称”する狗道供界が企む謀が、またもや最終的には「ミッチの物語」の新譜を残すのだ。




鎧武とバロンの最終決戦が行われたのち、終末思想を信奉する秘密結社「黒の菩提樹」が暗躍を始める。そして、異空間をさまよう謎の男・狗道供界。謎のロックシードが沢芽市にばらまかれ、ふたたび混乱が訪れる。狗道供界と「黒の菩提樹」を倒すため、呉島貴虎、光実たちが立ち上がる!





著者:砂阿久雁、鋼屋ジン
監修:虚淵玄
原作:石ノ森章太郎

講談社キャラクター文庫「小説 仮面ライダー鎧武」




※以下、「小説 仮面ライダー鎧武」のネタバレがあります。



この小説版のプロットそのものは非常にシンプルであり、死んだはずの狗道供界がロックシードをばら撒いているぞ! → みんなで倒そう! …と、要はこれだけの話である。とはいえ、まるで映像を観ているかのように“あのまま”のクオリティで生き生きと動き回るキャラクターたちに、懐かしさと、それでいて「外伝シリーズも佳境だからして、もう次は無いかもしれない…」という一抹の寂しさすら感じさせる。呉島兄弟は誰よりもストイックに問題解決に真摯だし(ふたりとも背徳感と責任感を重く捉えすぎるキャラクターで、この辺りは似た兄弟だなあ、と感じつつ)、ザックは自身のOVでキャラクターが“完成”してしまったからか熱さ&勢い一辺倒な面はあれどそれもまた魅力で、いつもと変わらない凰蓮と城乃内の師弟コンビは抜群の安定感を魅せてくれる。





物語としては、前述の「平成ライダーシリーズとしての仮面ライダー鎧武」「ミッチという存在に収束していく強さと継承の物語」のふたつのポイントをどちらも満たす、まさに“これぞ鎧武”な内容だ。

前者の大きな特長として、圧倒的な戦力を持つ敵が作り出した混濁した異世界において、ミッチは仮面ライダーディケイド(と思われる存在)と邂逅する。ディケイドというより、正確には門矢士。彼は幻惑の中で何度も何度も死を繰り返すミッチの前を“通りすがり”、「お前もまたそんな男を知っているはずだ」と問いかける。ミッチの脳裏を過るのは、「力無き人々が理不尽な暴力を前に、ただ涙を流すしか術を持たない時」に「誰よりも速く駆けつける『騎士』(ライダー)」という存在。つまり、彼にとっての葛葉紘汰そのものであった。そんな紘汰のような存在に、騎士(ライダー)になるのだと、ミッチは誓ったはずだった。そう促し、「挫けるには早すぎる。お前はまだ旅の途中だ。誰もが自分と戦い、歩き続ける」と焚きつける士。

世界に目を向ければ、そこには無数の世界と、無数の物語がある。ミッチは、士に導かれるように、クウガからドライブまでの平成ライダーの世界を垣間見る。まるでディケイド第1話で紅渡が士にそう説明したように、ミッチの目の前にはいくつもの地球が宇宙ともつかない空間に並んでいたのかもしれない。




究極の闇に抗いながら戦った戦士がいた。創造主から人の運命を取り戻す戦士がいた。自らの命を捨ててまで、争いを止めようとした戦士がいた。
夢を守るために戦った戦士がいた。世界と友の両方を救うため、運命と戦い続ける戦士がいた。鍛え抜かれた鬼の戦士がいた。
超加速し、時間の狭間で戦う戦士がいた。時の列車で時間を駆ける戦士がいた。人と魔のハーフとして生まれた戦士がいた。
二人で一人の、探偵にして戦士がいた。どこまでも届く腕を求めた戦士がいた。多くの友と青春を生きる戦士がいた。
希望の魔法使いである戦士がいた。スーパービークルを駆る、刑事にして戦士がいた。
無数の世界の、無数の物語。そのすべてで戦いは起こるのだろう。無数の悲嘆と苦痛に満たされるのだろう。
だが、それでもこの世は地獄ではない。世界の守り手たる彼らがいる。ヒーローたちがいる。そして、誰の心の中にもヒーローはいる。
――誰だってヒーローになれる。

・「小説 仮面ライダー鎧武」(第四章 P196)



前述のようにTVシリーズ本編で幾度となく過去の平成ライダーシリーズへの目配せ(オマージュ)を散りばめてきた本作だが、ここにきて遂に、直接的にその位置付けを主張してきた。「仮面ライダー鎧武」は、確かに「鎧武」の物語として単体の存在はあれど、企画の成立経緯からメインライター虚淵玄平成ライダーフリークな側面も加わり、平成ライダーシリーズとしての仮面ライダー鎧武」というメタ的なポジショニングは決して無視できず、それを時に武器に(時に批難の対象に)してこその「鎧武」だったのではないのかと、私にはそう思えてならないのだ。

だからこそ今回の小説版で、ついに正史の系列で平成ライダーシリーズそのものとクロスオーバーしたことが、どこか感慨深く、「やっちまった」感もあり、しかしその清濁込みの推進力こそが他の何者でもなく「鎧武」だなあ、と。思い返せば、鎧武のデビュー戦は「仮面ライダーウィザード」のラスト2話で成る特別編だったが、あれもまた人々の助けの声に「誰よりも速く駆けつける『騎士』(ライダー)」としての鎧武が描かれたのであった。紘汰は迷いなく謎空間に飛び込み、ウィザードの世界にてディケイド率いる平成ライダー一同と共闘を繰り広げた。

回り回って、TVシリーズを終え、MOVIE大戦を終え、外伝を経て、遂に行き着いた完結編とも言うべきこの小説版で、今度は鎧武という世界に平成ライダーそのものが“通りすがる”。綺麗な円環構造とも言うべきこの展開は、鎧武という作品の成立性にも関わってくる極上のサービスシーンでもあり、フィナーレとして非常に意味のあるものだったと感じている。





他にも、武神ライダーといった「戦国MOVIE大合戦」の要素を拾ってみせたり、「親指を突き立てる」に「サムズアップ」のルビを振ってみせたり、重ね重ねではあるが、やはりとても「平成ライダー」というコンテンツそのものを意識した構成だったなあ、と。だからこそ、もしかしたら鎧武単体のそれを求めていた人には余計な色目を使うなと思われたかもしれないが、私としては前述の通り「これでこそ鎧武」だったのだ。

続けて、ミッチの奮闘劇は言わずもがなである。美味しいところで兄である貴虎が助けに来る王道パターンも含めて、彼が贖罪のために戦い続ける姿はやはり胸にくる。「紘汰さん!」。最後に、宇宙の彼方から助けに来てくれた紘汰こと白銀の戦士に向かって、ミッチは叫ぶ。「僕だっていつまでも助けられてるだけじゃありません!紘汰さんや舞さんがピンチの時は、たとえ宇宙の果てでも駆けつけますから!僕たちずっと仲間です!」。彼は、コウガネやメガヘクスに続きまた紘汰の助けを借りてしまったことがとても悔しかっただろうし、とはいえ、不謹慎ながらまたの再会に心からこみ上げる喜びもあったのだろう。この台詞が少し涙ぐんだトーンでの高杉真宙の声で明確に脳内再生されるからして、呉島光実というキャラクターの存在は鎧武を象徴するこの上ない帰結だったなあ、と。

かくして、「平成ライダーとしての鎧武」「ミッチの継承の物語」というふたつのポイントは、鎧武の企画背景に始まり第5話や最終話で描かれたそれらに呼応するものであり、「小説 仮面ライダー鎧武」は間違いなく「鎧武」だったと、単純な文面ながらそれしかない感想が浮かび上がってくる。ただただ、鎧武であった。私の主張するところの「第5話はTVシリーズ全体をコンパクトにまとめたもの」に準じるならば、「小説版はシリーズの変遷に始まりTVシリーズ・劇場版・外伝シリーズ全てをコンパクトにまとめたもの」とも表現できるだろう。ふさわしく、相変わらず突き抜けていて、同時に書き手の書きたいことがガツガツとこちらを殴ってくる。熾烈にTVの前に座り込んだあの一年間を思い出す、そんなクオリティであった。





また、長年(?)ファンの語り草でもあったジンバーメロンの登場であったり、小説版限定のジンバードラゴンフルーツや魔蛇アームズなど、鎧武の世界観の中で繰り広げられるファンサービス合戦も見応えがあった。加えて、P218の5行目から「JUST LIVE MORE」を、P228から「YOUR SONG」を再生して読むと、一層ガツンとくるであろうことは言うまでもない。特に「YOUR SONG」は、その後の「鎧武シリーズ時系列」をエンドロール風に脳内再生していけば、素晴らしいクールダウンとして効いてくるはずだ。

「自らの死を超越し、英雄と共に戦った戦士がいた」。そんな一文が今後も加えられていくであろう鎧武の世界。混濁した賛否は今なお根強いが、“だからこその鎧武”を、私はこれからも愛好していきたい。

 

※当記事は引っ越し前のブログに掲載した内容を転載したものです。(初稿:2016/6/12)